ヒューストン(Houston)は、アメリカ合衆国テキサス州南東部に位置する都市。2,099,451人(2010年国勢調査)の人口を抱えるテキサス州最大、全米第4の都市である[1]。ハリス郡を中心に10郡にまたがるヒューストン都市圏の人口は5,946,800人(2010年国勢調査)にのぼる[1]。市域面積は1,500km²におよび、市郡一体の自治体を除くとオクラホマシティに次ぐ全米第2の広さである。
ヒューストンは1836年8月30日にオーガストゥス・チャップマン、ジョン・カービーのアレン兄弟によってバッファロー・バイユーの河岸に創設された。市名は当時のテキサス共和国大統領で、サンジャシントの戦いで指揮を執った将軍、サミュエル・ヒューストンから名を取って付けられた。翌1837年6月5日、ヒューストンは正式に市制施行された。19世紀後半には海港や鉄道交通の中心として、また綿花の集散地として栄えた。やがて1901年に油田が見つかると、市は石油精製・石油化学産業の中心地として成長を遂げた。20世紀中盤に入ると、ヒューストンには世界最大の医療研究機関の集積地テキサス医療センターやアメリカ航空宇宙局(NASA)のジョンソン宇宙センターが設置され、先端医療の研究や航空宇宙産業の発展が進んだ。古く からこうした様々な産業を持ち、フォーチュン500に入る企業の本社数がニューヨークに次いで多いヒューストンは、テキサス州のみならず、成長著しいサンベルトの中心都市の1つであり、アメリカ合衆国南部のメキシコ湾岸地域における経済・産業の中枢である。また、全米最大級の貿易港であるヒューストン港[2]を前面に抱え、コンチネンタル航空のハブ空港であるジョージ・ブッシュ・インターコンチネンタル空港を空の玄関口とする、交通の要衝でもある。また、日本を含む世界86ヶ国が領事館を置く世界都市でもある[3][4]。
このようにヒューストンは工業都市・ビジネス都市としてのイメージが強い都市であるが、文化水準の高い都市でもある。ダウンタウンの南側には10以上の博物館・美術館が建ち並び、年間700万人の訪問者を呼び寄せるミュージアム・ディストリクトがある。ミュージアム・ディストリクトに隣接するエリアには、全米の総合大学の中で常にトップ25位以内の高評価を受けている名門私立大学、ライス大学のキャンパスが広がっている。一方、ダウンタウンの中心部に位置するシアター・ディストリクトはヒューストンにおける演技芸術の中心地で、演劇のみならず、オペラ、オーケストラ、バレエなど多彩な演技芸術の公演が行われている[5]。
ジョンソン宇宙センターの存在から、ヒューストンには1967年にSpace City(宇宙の街)という公式な別名がつけられた[6]。地元住民はこのほか、Bayou City(バイユーの街)、Magnolia City(マグノリアの街)、H-Townなどと呼ぶこともある。
ヒューストンに住む日本人の人口は2550人[7]。ヒューストン在住の日本人のコミュニティとしてグレーター・ヒューストン日本人会[8]、ヒューストン日本商工会[9]、ヒューストン日米協会[10]などが組織されている。
1836年8月、ニューヨークの不動産起業家、オーガストゥス・チャップマン・アレンとジョン・カービー・アレンの兄弟はバッファロー・バイユー周辺のこの地に都市を創設すべく、6,642エーカー(約27km²)の土地を購入した[11]。サンジャシントの戦いで名を馳せた将軍で、その年の9月にテキサス共和国の大統領に選出されたサミュエル・ヒューストンの名を取って、アレン兄弟はこの都市をヒューストンと名付けることを決定した[11]。ヒューストンは翌1837年6月5日に市制を施行し、ジェームズ・サンダース・ホルマンが初代市長に就任した[12]。またその年、ヒューストンはテキサス共和国の暫定首都、およびハリスバーグ郡(現ハリス郡)の郡庁所在地となった[13]。1840年、バッファロー・バイユーに建設された新しい海港における貨物の積降や水上交通のビジネスを活性化させるため、ヒューストンには商業局が設置された[14]。
1860年頃には、ヒューストンは綿花の集積地・輸出拠点として栄え、商業や鉄道交通が発展した[13]。テキサス州内陸部各地からの鉄道はヒューストンで合流し、ガルベストンやボーモントの港へと通じていた。南北戦争中、ジョン・B・マグルダー将軍はガルベストンの戦いにおいてヒューストンを隊の集合地とし、市内には同将軍の司令部が置かれた[15]。南北戦争が終結すると、ヒューストンの実業家たちは市の中心部とガルベストン港との間での商業を活性化させるため、イニシアチブを取ってバイユー網の拡張に努めた。
1900年にガルベストン・ハリケーンが上陸してガルベストンの港町が壊滅的な被害を受けると、内陸のヒューストンにより安全な、水深の深い、近代的な港を造る機運が高まった[16]。翌1901年、ボーモントの近くのスピンドルトップ油田で石油が見つかると、ヒューストンでは石油産業が興った[17]。さらにその翌年、1902年には、当時の大統領セオドア・ルーズベルトがヒューストン港の運河、ヒューストン・シップ・チャネルの整備費用100万ドル(当時)の計上を承認した。掘削に7年の歳月を費やした後、1914年、大統領ウッドロウ・ウィルソンはヒューストン港を開港した。1930年には人口292,352人を数え、サンアントニオとダラスを抜いてテキサス州最大の都市になった[18]。
第二次世界大戦が開戦すると、ヒューストン港の貨物取扱量は減少し、積降は保留とされるようになった。しかし、戦争需要から市の経済はむしろ活性化した。戦時中の石油化学製品や合成ゴムの需要増加に対応するため、シップ・チャネル沿いには石油化学工場や製造工場が建設された[19]。地元の造船業も増産し、市の成長を促した[20]。経済成長をエリントン・フィールド空港は、もとは第一次世界大戦の最中に設置されたものであったが、航空士や爆撃手の上級訓練センターとして生まれ変わった[21]。1945年、M.D.アンダーソン財団はテキサス医療センターを設置した。第二次世界大戦の終結とともに、ヒューストンの経済は再び港湾中心に戻った。1948年、近隣の所属未定地を合併したことにより、ヒューストンの市域はそれまでの2倍以上になり、地域全体にわたって広がり始めた[12][22]。1950年代に入り、エアコンが普及し始めると、蒸し暑いヒューストンの夏も快適に過ごせるようになり、多くの企業がヒューストンに移転してきた。その結果、ヒューストンの経済は高度成長期を迎え、エネルギー産業を中心とした経済に移行していった[23][24]。1961年には有人宇宙船センター(1973年にジョンソン宇宙センターに改称)が設置され、ヒューストンには航空宇宙産業が興った。
1970年代に入ると、北部のラストベルトから南部のサンベルトへの人口と産業の移動が始まり、ヒューストンの人口は急増した[25]。1973年の第一次オイルショックで原油価格が高騰すると、大量消費型の製造業を中心としていた北部の工業都市が軒並み衰退する一方で、産油地であるヒューストンは潤い、石油産業を中心に創出された雇用を求めて大量の住民が移入してきた。しかし、1980年代中盤に入ると原油価格が暴落し、経済は沈滞、人口増加のペースも鈍化した。そこに1986年のチャレンジャー号爆発事故が追い討ちをかけ、航空宇宙産業も打撃を受けた。アメリカ経済そのものの低迷もヒューストンの地域経済に影響を及ぼした。その教訓から1990年代以降、ヒューストンは経済の多様化に努め、航空宇宙産業やバイオテクノロジーといったハイテク分野に力を入れることで石油化学産業への依存度を減らしてきた。
[編集] 地形
ヒューストンは北緯29度45分46秒西経95度22分59秒に位置している。アメリカ合衆国統計局によると、ヒューストン市は総面積1,558.4km²(601.7mi²)である。そのうち1,500.7km²(579.4mi²)が陸地で57.7km²(22.3mi²)が水域である。総面積の3.70%が水域になっている。ダウンタウンの標高は約15mである[26]。市の最高点はダウンタウンから遠く離れた北西部にあるが、それでも標高は約38mにとどまる[27][28]。
ヒューストン地域の大部分はメキシコ湾西岸草原地帯に属する。その植生は亜熱帯性の森林および草原に分類される。市の大部分は森林、湿地、沼地、草原を切り開いて建設された。同じメキシコ湾岸の低湿地に位置するニューオーリンズほどではないものの、土地が低く平坦で、かつ市街地のスプロール化が進行しているヒューストンは、洪水の被害に見舞われやすい[29]。かつては水道水源を地下水に頼っていたが、地盤沈下を引き起こしたため、ヒューストン湖やコンロー湖などの地表水を用いるようになった[30][12]。
バイユー・シティの別名が示す通り、ヒューストン市内にはバイユーと呼ばれる小川がいくつも流れている。中でも最大のバッファロー・バイユーは、ヒューストン西郊のケイティに源を発し、ヒューストンのダウンタウンを東西に貫いて流れ、ヒューストン港のヒューストン・シップ・チャネルに注ぐ。ヒューストン・シップ・チャネルは南東へ続き、ガルベストンでメキシコ湾に注ぐ。
[編集] 気候
ヒューストンはケッペンの気候区分では温暖湿潤気候(Cfa)に属するが、実際には亜熱帯と呼ばれる、熱帯と温帯の中間にあたる気候である。春の雷雨は竜巻を伴うこともある。1年を通じて南から南西寄りの風が吹き、メキシコの砂漠地帯からの熱気とメキシコ湾からの湿気をヒューストンとその周辺地域にもたらす。
ヒューストンの夏の日中の気温は摂氏30度を上回ることが常である。過去の統計の平均では、最高気温が華氏90度(摂氏32.2度)を超える日は年間の約1/4、99日におよぶ[31][32]。またヒューストンは湿度が高いため、体感気温はさらに上がる。夏の午前中の相対湿度は平均90%を超え、午後でも60%近くなる[33]。海岸沿いの一部を除いて、夏季のヒューストン周辺の風は弱く、暑さや湿気が和らげられることもあまりない[34]。この暑さに対処するため、ヒューストンの住民は市内の建物という建物、通行する車という車のほぼ全てでエアコンを効かせている。1980年には、ヒューストンは「地球上で最もエアコンを効かせている場所」と評された[35]。ヒューストンにおける観測史上最高気温は2000年9月4日に記録した摂氏42.7度である[36]
一方、ヒューストンの冬は温暖で、過ごしやすい日が続く。最寒月の1月においても、月平均気温は摂氏10度を超え、最高気温は摂氏17度、最低気温でも摂氏7度ほどである。降雪はめったに見られない。2004年のクリスマスイブには大規模な雪嵐がメキシコ湾岸を襲い、テキサス州南部は「記録的な」大雪に見舞われたが、その時もヒューストンにおける降雪量はわずか2.5cmであった。ヒューストンにおける観測史上最低気温は、1940年1月23日に記録された氷点下15度である[37]。
ヒューストンの降水量は1年を通じて多く、年間では1,200-1,300mm程度になる。夏季には散発的な雷雨が起こりやすく、ハリケーンや熱帯低気圧の通り道になることもよくある。2001年6月には、トロピカル・ストーム・アリソンがテキサス州南東部に1,000mmを超える豪雨を降らせ、ヒューストンは市史上最悪の洪水に見舞われた。アリソンによる被害総額は60億ドルを超え[38]、死者はテキサス州だけで20名を数えた[39]。2005年9月、ハリケーン・リタが接近したときには、ヒューストン市街地への直撃が懸念され、ヒューストンとその周辺地域の住民約250万人が避難した[40][41]。リタ襲来の1ヶ月前にニューオーリンズに甚大な被害をもたらしたハリケーン・カトリーナの教訓から多くの住民が早目に避難したことに加え、実際にはリタの進路が東寄りにずれてテキサス・ルイジアナ州境付近に上陸し、ヒューストン市街地はハリケーンの左側半分(可航半円)に入ったため、ヒューストンにおけるリタの被害は、ハリケーンの規模の割には比較的軽微であった。ただし広範囲に避難勧告を出したため数十時間路上に滞在したり自家用車のガソリンが路上で切れたりなどの混乱を伴う極端な避難渋滞が発生し、後のハリケーン・アイクの際の避難計画策定や人々の避難行動に影響を与えた。
2008年9月13日にテキサス州ガルベストンに上陸したハリケーン・アイクは高潮によりガルベストン西部に壊滅的な被害を与え、ヒューストン周辺で35名以上の死者を出し[42]、ヒューストンの広範囲に停電を引き起こした[43]。市民生活に多大な影響があったが、避難勧告地域を限定したためハリケーン・リタの際に起こった避難渋滞による混乱は発生しなかった。
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